はじめまして。当協会で理事をしている森下彰大(しょうだい)と申します。現在29歳で、ふだんはWebメディアの編集者として海外のニュース動向をチェックしたり、世界の知識人へのインタビューをしたりしています。


こんな感じで、YouTubeでも情報発信をしております。

デジタルデトックスの活動と言いながら、僕自身もフルリモートでお仕事をしています。YouTubeもPrime Videoも好きです。iPhoneも使います。「は?」と思った方、ひとまずは最後まで読んでみてください。「デジタル技術は素晴らしいし、好きだからこそ共存の方法を考えたいよね」というお話を長々とするつもりです。

実はこの文章はインターンシップ・メンバーを募集する際に、理事からの一言としてコメントを書こうと思ったら、思いもよらぬ超長文になってしまったため、別記事にして出すことにしました。どうもペース配分というのができないようです。

デジタルデトックスという言葉はいろんな誤解をされることも多く、そのため、いつもエビデンスを多用しながら客観的な説明をするように心がけています。しかし、今回はあえて一人称を「僕」として、僕自身がなぜデジタルデトックスの活動をしているのか(しないとヤバいのか)。そしてなぜ、いま記事を読んでくださっている方のお力が必要なのかを書きました。

堅苦しい文章が僕の十八番ですが、今回はデジタルデトックスに親しみを持ってもらい、最後には「おっしゃ、僕も私も!」と奮い立たせる作戦です。なので、がんばってわかりやすく想いを伝えます。とはいえ、だいぶ長くなってしまいましたが。

しばし、お付き合いをいただけたらと思います。

テンポラル・ノーマルではない

さて、いきなりですが、“Offline is new Luxury(オフラインは新しい贅沢)”という言葉を以前に聞きました。いまからもう何年も前、知り合いの社長さんがIT大国のエストニアに滞在した際に知ったそうで、教えてもらいました。

いまとなっては小さな子どもからご年配の方まで、デジタルデバイスに触れずに1日を過ごすということはきわめて稀になりました。オンライン授業にリモートワーク、Zoom飲み、マッチング、ソシャゲ、etc……。オンラインでできることはさまざまで、そのおかげでこの未曾有の事態のさなかにあっても、私たちは社会的な生活を送ることができています。

しかし、強調したいのは次の事実です。

私たちが突入したのは「ニューノーマル」の生活であって、「テンポラル・ノーマル(一時的な通常)」ではない。つまり、「オールド・ノーマル」には、もう戻らない

「ニューノーマル」という言葉からはこんなことが読みとれます(そもそも「ノーマル」って誰にとっての「ノーマル」なんだということはさておき)。

多数の秀才たちと一部の天才

少なくとも、これからやってくる時代がアフター・コロナだろうがウィズ・コロナだろうが、私たちはIT技術に頼って生活していくほかないと考えています。いまさらパソコンやスマホはおろか、インターネットすらない時代に戻るというのは非現実的です。というか、僕もそれはゴメンです。

デジタル技術が発展を続ける以上、僕たちはこのIT技術が生み出した「道具たち」に依存するのでなく共存していかなければなりません。なぜかというと、依存の先にあるのは破滅で、そこに持続はないからです。大ざっぱにいえば、流行りのSDGsじゃあないんです。

スマートフォン、そしてSNSなどの素晴らしいサービスを創り出したシリコンバレーの多数の秀才と一部の天才たち。秀才たちは、彼らが行動心理学を駆使して作り出したSNSやいろいろなサービスが爆発的に普及する様子を見てニンマリとしました。しかし喜びも束の間。すぐに「ヤベッ」となりました。

愛する我が子まで、タブレットを奪うと泣きじゃくり、鬼の形相で「YouTube!!!」とせがむのです。

「僕たちはとんでもないものを作ってしまったのではないか」と、すでにサービス設計者のなかにはユーザーの依存性を高めるための施策を行なっていたことを認め、このままではいけないと、より健康的に使ってもらうための取り組みを始めました。テック企業も少しずつ解決に向けて動き始めています。

一方で天才たちは、当初から我が子へは非常に厳しいデジタルデバイスの利用制限を課しました。スティーブ・ジョブズの子どもは、iPadが発売されてもすぐにデバイスに触れることはなく、ビル・ゲイツの子どもは……と、これは有名なエピソードですね。同じく天才のイーロン・マスクはよくツイートが炎上していますが。

道具としてスマホを使う

何であれ、道具をうまく使うということは「うまく使わないこと」と同じだと思うんです。うまく使える人はうまく使わないこともできるんです。つまり、道具を使うかどうかの選択権が自らにあるのです。そして、「AがなければBを……」と道具の代替ができます。

「何を当たり前なことを」と思われるかもしれませんが、ことデジタルデバイスとなるとこれが意外に難しいのです。理由は2つあります。

1つめの理由は、デジタルデバイスが「自ら利用を促す装置」であること。

自転車は「おい乗れよ!」と自らの上に乗っかってきたりはしません。しかし、スマホは通知を発することで「おい見ろよ!」と私たちの行動を変容させます。バイブレーションが鳴っただけで(というか、鳴っていなくても)、私たちの手はスマホに伸びてしまいます。道具が手綱を握ってしまっている状態です。

難しい言葉で「コンヴィヴィアリティ(自立共生)」という概念があります。小難しい言葉ながら非常に重要な考え方です。要は道具も使い方を誤り、ある一線を超えてしまうと、便利なはずの道具が存在することでかえって生産性が下がってしまうということを言っています。少し話が逸れますが、「自立とは依存先を増やすこと」という至言があります。そう考えると、スマホがないと困ることというのがあまりに増えすぎた感がしますよね。

「コンヴィヴィアリティ」を唱えたのはイヴァン・イリイチという哲学者ですが、彼は「人間と道具の主従バランスが崩れることの怖さ」をスマホが生まれる何十年も前から警告していたのです。スマホやデバイスという道具に使われることでどんなことが起こっているのか、その詳細はデジタルデトックス・アドバイザー養成講座でお伝えします。

2つめは、私たちの脳が太古のままで、スマホのような魔力を持った存在に対して非常に脆弱であることです。常に情報を欲し、周囲に注意を張り巡らせることで生きのびてきた私たち人間にとって、新しい情報をいつでもどこでも届けてくれるスマホは夢のような存在です。だからこそ、利用のコントロールが難しい。

結果として、寝室にいてもトイレにいても、ついスマホを眺めてしまうのです。これは決してあなたが不摂生で自堕落で怠惰だからではありません。くわしくは『スマホ脳』で書かれています。もし「ずっとインスタを見ている」ことで自分を責めている方がいらっしゃれば、ぜひポチって読んでみてください。

新しい働き方には「新しい休み方」

先ほど述べたような問題は、コロナ禍の前から指摘されていました。しかし、いよいよニューノーマルの生活が始まり、仕事や日常生活のためのインフラとして、スマホがいままで以上に不可欠なモノになったいま、オフライン(デバイスをお休みする時間)がいつまでも「贅沢品」であってはいけないというのが僕の考えです。デジタルデトックスをしたいと思っていても、それを理解する土壌がなければ、非常に実践は難しい。「ただの連絡がとれない使えないヤツ」になってしまうからです。

だからこそ、誰しもが当たり前のようにデジタルデトックスができる国になったらいいなと思っています。そして、デジタルデバイスに対してONとOFFをコントロールできること、それを応援するのが「スマート」なことだと認知されるべきだと思うのです。フォンだけがスマートでは意味がないんです。私たちも自らをアップデートして、新しい働き方に即した「新しい休み方」を考えなければいけません。

これはユーザーだけの話ではありません。今後ITを活用したビジネスを創出する人にとっても必要な倫理観です。なぜなら、「ユーザーを依存させることで儲ける」というビジネス形態はもはや消費的で、刹那的で、ダサいことだからです。欧米ではSDGsに対して積極投資することはもはや当たり前で、SDGsから外れたことをする企業はもはや叩かれる時代です。ちなみに顧客を「ユーザー」と呼ぶのはドラッグの売人かIT業界だけ……なんて言葉をどこかで聞きました。

持続可能でなければ意味がない。これがいまの時代のパラダイムです。そして「時代のインフラ」であるIT企業も例外ではありません。子どもを相手に数百万円もの課金をさせる依存型エコシステムを作り上げることが持続的だとはとても思えません。そして、仕事とプライベートの区切りがつかずにチャットに返信を続け、夜は動画を見ながら眠りにつく生活が持続的だとはとても思えません。

失敗を繰り返さないために

時代の大きな転換期にあるいま、私たちはデジタルデバイスの功罪について学び、何かを変える必要があります。

最後に、ゲオルグ・ヘーゲルという哲学者が遺した辛辣な一文を引用します。

私たちは「歴史から何も学んでいない」ということを歴史から学ぶ

We learn from history that we do not learn from history

かなり辛辣ですね。ある技術が発展し、手放しで恩恵を享受したあとに少し遅れて、その影の部分が鮮明になります。

たとえば、公害がそうです。

「いいじゃないか。便利なんだから、使えば」
「作ったら作っただけ売れるんだから、とにかく作れ」

高度経済成長期の大人たちは、汚れた空気と汚れた水を垂れ流して「便利」を優先しました。当時は「便利」であることが正義でしたし、実際に不便なことが多かった時代ですから、それは仕方のないことかもしれません。私たちが商品を求めて消費を続けたことも、また事実だからです。

しかし、その後の公害問題で多くの人たちが甚大な被害に苦しんだことは説明するまでもありません。もちろん、すべての技術には負の側面があり、それを否定するのはただの「ヒステリー」です。「火事になるから火を使うのはやめよう」とはいえませんよね。しかし、「リスク」を理解(想像)して扱うことと、手放しで使い続けることには雲泥の差があります。

「商品」はあなた

くりかえしますが、必要なのはヒステリーではなくリテラシーです。最近になってよく聞く「スマホはドラッグのように依存性がある」という表現にはヒステリーを助長させる響きがあります。もっと正しく怖がり、正しく使うべきです。『スマホ脳』著者のアンデシュ・ハンセンさんへインタビューをしたとき、彼は「ただ怖がってしまうと問題に向き合えなくなる」と仰っていました。

ただ心配すべきなのは、IT技術はいままでに類を見ないほど加速度的に進化していることと、そのデメリットが一見してわかりにくいことにあります。「いいじゃないか。使えば」になりがちなのです。

いまでは情報はほぼ無料です。しかし、実は商品となったのは私たちです。私たちの「興味」はウェブ上の棚に陳列され、売買されているのです。

ある意味では、私たちは商品になる対価としてYouTubeで動画を観たり、SNSで投稿したりしているのです。広告主にとっては喉から手が出るほど欲しい情報(=自らのプロフィールや嗜好、ライフスタイル)を喜んで提供しているわけですから、単純にテック企業を責めれば済むという問題ではありません。私たちも自らがどんな構造に(意図せずとも)入り込んでいるのか、理解しなければいけないと思います。

「変化を楽しむ側」に居るために

リスク、デメリット……。こうした考えを巡らすことが悲観的だと思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも、デメリットを考えることでメリットも鮮明になります。悲観的に考えたあとは楽観的に使えばいいと思うのです。その思考のくり返しで、私たちはより主体的に利便的に、健康的に道具を使えるようになるのではないでしょうか。

「知の共有」ができることこそインターネットの素晴らしさです。だからこそ先例から学び、同じ問題意識を持つ者同士がオンライン上でつながることで、私たちは「集合知」を得られる。そして、激変の時代でも賢明でいられると思うのです。文殊(もんじゅ)もびっくりな時代に、私たちは生きているんです。

さて、さっきから激変の、転換期の……と言っていますが、それは決して明治維新の英傑たちに身を重ねるような自己陶酔から、こうした言葉を使っているわけではありません。嘘です。8%ぐらいはあるかもしれません。

ただ、見る人が見れば、時代はいつも「変化」しているものです。そして、僕はただ単に「変化を楽しむ側」にいつも居たいと思うだけなのです。これは僕がデジタルデトックスを研究する、残り92%の動機です。いつの時代であっても、ただ楽しく過ごして、幸せでありたいと願っているだけです。

楽しむことは快楽に溺れるのとは違います。楽しむには知識が欠かせません。だから、変化を楽しみたいという楽観的な希望を持つ者こそ、いま真面目に問題を捉えてアクションを起こしていくべきなのです。

僕の大好きなデヴィット・ボウイはこう言いました。

「『明日』は、その足音が聞こえる人のもとにやってくる」

最後と言っておきながら、また哲学者の言葉を引用してしまいました。

長々と失礼しました。でも、いま変化が見える方たちは居ても立っても居られないはずです。そんなとき知識がガソリンとなってアクションが起こせるはずです。

それでは、10月からスタートする「デジタルデトックス・アドバイザー養成講座」で、皆様とお会いできるのを楽しみにしています。当面はオンラインですが、いずれは一緒に焚き火を囲めることを願って。

2021.9.24

DIGITAL DETOX JAPAN 理事 / リコネクター
森下 彰大

▼デジタルデトックスの効果に科学的根拠はあるの?